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ミヤハラヨウコの日記

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映画のこと
食べ物のこと
植物のこと
思いついたことを
文章にしてみよう思います


2011/12/10 窓

太陽光線が、対向ホームの屋根ごしにさしている。
植物が光合成をするように
人間だって光を熱に換えて受け取っているし
体内でビタミンDを生成する
すごいことだよ。
マダガスカルのキツネザル達も、
せっせと日光浴をしては、なにか別のものに変換しているんだろう。

その光の中を、なにか光るものが、ついーついーっと通過する
虫かな?
あんなの知らないけど、いるよね、多分
ほんとに?
そう思ったら、急に背中が寒くなった。
世の中に知らない虫なんてたくさんいる
いるにちがいないと決め、電車に乗った。

各駅停車のこの電車は、急行をやりすごすため、隣駅で待機する。
たまたま向かいに回送電車も停まっている。
すると見慣れた風景が、すこし違う。
向かいの電車の窓枠でさらに切り取られている。
ただそれだけで、違うものになる。

映画「ブロークバック・マウンテン」
オープニングのでっかい空には「やられた」と思った
アメリカの空だー。
物語が終わった時、それは、トレーラーハウスの窓に
ちいさく切り取られて、
残された男が、たたみかけた衣服を、くしゃくしゃにして
泣いていました。

切り取られた風景というのは、
日本人にはなじみのもの
庭園をきりとる、雪舟の丸い窓は、あまりにも有名。
石川丈山の「詩仙堂」では、
暗い床と屋根のひさしが、庭を長方形に切り取っている。
家屋の外に庭がある、というよりは
庭のなかに部屋があるというほうが当たっている。
春から夏へうつりかわる緑、秋の紅葉、冬の雪
暗い屋内から見る色彩は、より鮮やか。
開放的な畳敷きの和室は、
まったくの無防備で
その住人は、季節という時を旅する。
日々の歩みとおなじ速度で。

そういう贅沢な庭は、庶民には無理だったけど
それに負けないくらい素敵なものが現代にはある。
船、車、電車、飛行機、宇宙船。
移動手段の乗り物に、窓をつくったことで、見るべき物がひとつ増えた。
音楽を外につれだしたウォークマンは、これと同じ装置なんだと思う。
ガガーリンだって、窓がなければ、
青い地球を目にすることはなかったんだから。

移動する窓、となれば、それは旅。
旅は、出発するまでが、正直めんどうだけど
いざ出発してしまえば、この楽しい時間がながく続いてほしいと思う。
飛行機からも、電車からも、見た事のない景色が見える。
アラスカ経由の飛行機からは、
ツンドラの大地に走るたくさんの川の流れを見る事ができた。
ヴェニス〜パリ間、ワゴン・リの深夜の車窓は
象徴派の絵のようだったし
ロス〜サンフランシスコの高速道路は「リトル ミス サンシャイン」
砂漠のあちこちで原油をくみ上げるポンプは
ブロフスキーのインスタレーションそのもの。
ローマのマツは、にょきにょきのきのこみたい。
ずばり「アッピア街道の松」ていう曲があったっけ。
アイルランド横断電車は、ちょうど通勤時間帯、
自転車専用車両があって、自転車をおしたまま乗車する。
なんで日本にはないんだろう。
(自転車をたためば乗せてくれないこともないけど)
どれも全部、忘れたくない風景。

毎日の通勤電車の眺めだって、たいして代わり映えしないが
なにかいつもと違うところがあって
今日は、日当りのいい屋根で、猫が寝ていたとか。
どこかの家の、ハクモクレンがこの2、3日で満開とか。
毎日同じではない。
少し歩みを遅くした、うつりかわる窓にはちがいない。

この春に引越した家の窓は
お向かいの小山の緑を四角く切りとっている。
コジュケイが元気いっぱいに縄張りを主張して
コマドリやオナガも負けてはいなかった。
嵐の一日は、木々の葉が紙くずのように、
ごうごうと風に吹き上げられていた。
でも窓のこちら側にいれば、雨にぬれる事もなく
風にふきまどわされることもない。
こんなふうに、ぬくぬくとしていられることは
なんて幸せなことなんだろう。

2011/11/3 主人公はぼくだった

2006年の映画「主人公は僕だった」
税務署に勤務している主人公は
真面目で几帳面、その毎日は版で押したように
定時起床、定番の朝食をとり、
定刻のバスに乗って出勤する。
「きちんと整理された書類の束が
波のような音をたてているように思う書庫」
それにうっとりしてしまう。

税務署の職員というものは
世間的には敬遠されてあたりまえ。
ベーカリーショップに収支の調査にはいれば
未整理の伝票が一年分、どっさりはいった段ボール箱なんか
ドンと渡される。
それに、丁寧に目を通しているうちに
その店の主人のやっていることが見えてくる。
彼女は自分の店でホームレスに食事をあたえたり
生活再建の支援をしたりしている。

彼女に興味を持ち始めた彼が
「好きな物は?」と聞けば「Flower」の返事。
いろんな種類の小麦粉(Flour)のプレゼントなんかしてしまう主人公。
それがかえって良かったようだけど、、、ねぇ。

ある日、所定の歩数で歩道を渡りきることができなくて
ドアが目の前で閉められ、バスに乗り遅れる。
決まりきった彼の生活パターンに亀裂が生じる。
映像上の計算式がバラバラと歩道に崩れ落ちる。

ふと気づくと、すでに「物語」が割り込んでいる
誰かのナレーション付きで。
主人公の頭の中で、だれかが自分の感情や行動を物語っている。
どんなに抵抗しても、いつの間にか「声」のとおりになっている。
彼の生活はがらりと変わってしまう。

この「声」の主が、寡作で有名な作家の声だと分かったのは
ある文学部教授の部屋を訪ねた時。
TVでインタビューをうけていた。
現在(待望の)新作にとりかかっているという。
しかも脱稿も間近だという。

どうやら、現在書かれつつある新作は
いまおこりつつある彼の人生、らしい。
ということは、物語が書き上がったとき
そこに彼の未来も書かれている、はず。
意を決した主人公は、
作家を訪ねて「物語を読む権利が自分にある」と主張する。
それは彼の未来なのだから。

すったもんだのすえ、原稿を手にした主人公。
バスのなかで、原稿を読むシーンが、良かった。
彼は自分に用意された未来を受け入れるのか?

タイトルはいまひとつだったし
大ヒットとはいかなかったけど、
結末は、どうぞ映画を見てくださいね。
本を読んでいる時のような(脳内の)映像感覚があって楽しかったです。

お話は少し変わりますが
先日読んだ本、ウンベルト・エーコのお話。
「書物とは本来、読み上げるものだった」
文章を声に出して読み上げることで
音声としての情報が脳に届き、理解へといたる。
黙読というのは、書物が印刷されるようになり
個人の書物というものが一般的になってから。

また、声を出さずに黙読するのは、学習しなければできない
とどこかの脳科学者が言っていた。

そう、本を読んでいる時、頭の中で声が聞こえる。
だれかが、文章を読み上げている。
役どころによって、声も変わる。
この時、脳の音声野が活発に活動している。
「速読」の人は音声野は活動しない
文字を情報としてそのまま処理するからだ。

情報を得るための本は速読でいいし
キンドルや、i-padでまったく問題ない、
むしろそのほうがいいだろう。
(私自身、i-pad未体験だけど)
ただし「物語」を楽しむ時は、目も感触も、
読書の時間を楽しみたい。
印刷された書物とは、なんて贅沢なんだろう。
そういう時代に戻っていくのかもしれないね。
なんといっても、美しい書物は、所有欲をくすぐるから。

エーコが「書物の定義」ということも言っていておもしろかった。
「書物とは、読まれる物体であるーーーいいえ」
なぜなら、パンフレットやカタログなども
読まれる物体にはちがいないが書物とは言えないからだ。
粘度版や石、壁に描かれた、遺跡だってある。
「それは言語と方言とはどう違うかを検討するのに似ている(のだが)
言語学者にもその違いは分からない」

そんな難しい問題に答える事はできないけれど
私にとって「書物」とは「物語」を持っているかいないかだ。
旅行ガイドブックだって
そこに物語があれば、それは書物。
物語がなければ、書物の格好をしていても、それは書物ではない。
これはただの主観だから、書物の定義とは関係がない。

小学生のころに見たドキュメンタリー、
BBCの番組だったと思うが
古い大学の図書館で、
幅150cmほど、天井まである書棚の2、3列を示して
「人が一生の間に読める本の数には、限りがあります」
と言っていた。
内容はすっかり忘れたのに、そこだけ覚えている。
時代が変わっても、速読技術が普及しても、
人の読む本の量はそんなに、変わらないだろう。
出版数は飛躍的に伸びているけどね。
としたらやはり、いい本に巡りあいたいと思う。

2011/9/24 Peace River

「サスカッチャンの山」は
吹奏楽の楽曲で、アルフレッド・リード作。
この聞き慣れない名前は
中学以来ずっと頭にのこっていた。
先日「小さな家々の村」という本を読んでいると
ピースリバーという村付近から、この山が見える、という一文が。
これ、カナダ東部の話だった、と地図を見る。

A・リードはアメリカ人だし
インディアン(当時はなんの疑問もなくそう言っていた)の言葉だし
なんとなく、アメリカにある山と思い込んでいた。
アメリカとカナダ
私たちからみれば、ふたつは文化的にもほとんど一緒の気がする。
実際、アメリカのTV番組と思っていたら、カナダ制作とか
カナダの作家と思っていたら、アメリカから移住したとか
かなり混ざり合っている。
ベトナム戦争当時は、徴兵忌避者がカナダへ逃れた例もおおかった。
よく観察すれば、気質も人種構成も違うのは明らかなのだけど。

本のなかにも、ちらとでてくる「カナダ建国百年祭 1967」
このイベントのために作曲された曲なのだそうだ。
もちろんこの物語の小さな村には
まったく関係なくとりおこなわれたイベントだけど。
「サスカッチャン」は、クリー族の言葉で「白い砂」の意。

「小さな家々」というのは、
お墓にたてられた、死者のためのミニチュアの家で
どれも白く塗られている。
今はペンキだけど、以前は泥を塗っていた。
それがかわくと白くなるのだそうだ。
きっと白く細かい粘土質の地層なんだね。
でもどこかでみた写真では(ナショナルジオグラフィックかな?)
赤いドアや水色の窓枠なんかを見たような気がする。
かわいらしいおもちゃの村のようで、
パースもどことなくゆるくって、おおらかなところが良いなあと思っていた。
その小さな家が表紙になっていたので、手にとった。

アラスカ周辺のイヌイットのお墓といえばトーテムポール。
固く凍りついた地面に穴をほるのは、大変な作業だし
祖先の霊は、空と大地の間にいて
子孫を見守ってくれているのだ。
けれどこの部族は、小さな家を地面に建てる。
その意味とか作法については、いまのところ、私にはまったくわからない。

そういえば、子どもの頃、実家のお葬式では、
お棺のうえに細長い屋根が乗っていた。
これもやはり死者のための家なのだろう。
死んでしまったら、こんな寂しい場所に住まなければならない。
もっと明るくて楽しげだったら、良いのにと
子どもの私は思った。

お話は、「ウエイヘホ」という言葉から始まる。
時間的にも距離的にも遠く隔たった、という意味の言葉で
そこを通過した人間の成長や変化、というようなものまでを含むのだという。
「むかしむかし、少年がまだちいさくて、母のお腹のなかにいたころ」
とでもいうところでしょうか。

少年はまったくの白人だが、ピースリバーというインディアンの村で生まれた。
(このお話では、インディアンという呼び名を使う
それはお話を読んでみればわかること)
生まれたときから、とても病弱な子どもだった。
やっと1才になろうという誕生日、病院で生死のさかいをさまよっていた。
母親が妊婦の時に処方された薬「サリドマイド」が原因だったのだろう。
1957年以降、サリドマイドは催眠鎮静剤として処方されていたが、
1961年頃、妊婦が服用すると胎児に畸形が見られる、との報告があり、販売中止となった。
「サリドマイド児」は「ヒ素ミルク」くらい、
リアルでおそろしい言葉だった。

それは主人公の兄の、仲良しの女の子が始めたこと。
弟の身を心配している大好きな彼のために、できる事がある。
それはひいひいおじいちゃんに、彼の小さな弟を救ってもらうこと。
こうして、クリー族の老メディシンマンを先頭にした一団が、
赤ん坊の病室に駆けつけることになった。
この白人の赤ん坊を、助ける方法がひとつある。
インディアンになればいいのだ。

老メディシンマンは、薬草を処方して、彼の命を救ってくれた。
少年がさらに成長したころ、老メディシンマンは
祖先の話をいくつか、語ってきかせた。
古いふるい話のようだった。
こうして彼はインディアンになった。
それはとても簡単で、ただ
「インディアンで居続ける事はむずかしいのだよ」
と老メディシンマンは言った。

父の親友は、少年の知るかぎり世界一おおきなインディアンで、
村一番の歌い手だった。
ところが、コンテストではいつも、
ほかの誰かに1位の座をゆずってしまうのだ。
だれよりもおそろしい顔で、森を知りつくしている優秀なハンターは
消防隊員でありながら、自分で放火をしたのだと、村のだれもが知っている。
6日間も森で迷子になって生き抜いた子どもは、
白人もインディアンも、村中の人が一緒になって、
その生還をこころから祝った子どもだった。
彼は少年の一番の親友だった。

少年が10代になった頃、十分成長したと思われるので、
手みやげのタバコを持って、老メディシンマンをたずねていった。
自分の命を救ってくれた恩人なのだから。
少年は、村の生活が便利になったことや、
新しい橋がかかることについて話していた。
帰り際、ドアをしめようというとき
「もう訪ねてもらわなくてもいいようだね」
とても静かな声でそう言われた。
少年はインディアンで居続ける事はできなかったようだ。

老メディシンマンは、ある朝、
妻が眠ったまま逝ってしまったのをみつけた。
そこで、彼も妻のかたわらに横になって
そのまま息をひきとったのだという。

あちらへ飛びこちらへ飛ぶ、子どものおしゃべりのように
いろいろな事件が通過していく。
ふと気がつくと、この細い線も、だれかの一言も
すべてはつながっていて、少年のまわりをネットのように取り囲んでいる。
彼にはそれが、誇りでもあり重荷でもあっただろうな。

この作家は、TVとかマスコミュニケーションに携わっている人なのかな?
なにかそういう色があって、文章からうかんでくる映像も鮮明だ。
外国のCMだったか、
イヌイットの老人が孫に、雪に残った足跡をしめして
なんの動物がのこしたものか教えている。
ウサギ。キツネ。カリブー。クマ。
特徴的なギザギザの轍は…ワーゲンの車だったかな?
そんな映像が思い出される。

ピースリバーから
南に下ると国境を越えて
ワシントン州スノコルミー。
「ツインピークス」の舞台になった町。
きっともう観光客は押し寄せていないだろう。
ホテルの内装が岩の壁で、かっこよかったな。

戻って北東にあがると
そこには「In to the wild」の
クリス・マッカンドレスのバスがある。
テクラニカリバー、アラスカ。

イエローナイフはすぐそこだ
寒い場所は苦手だけれど、行ってみたい。
オーロラを見に。

2011/7/29 Derek Jarman's Garden

デレク・ジャーマン
といえば、映画監督として知られているけれど
これは彼の庭の写真集。

10年以上前にでた、この写真集が
また店頭にならんでいるのを見て思わず手に取った。
まえからこの大きさだったかな、
なんだか、ひとまわり小さく見えるのは気のせいか。
当時は、このマイナーな映画監督が
HIVに感染して、すでに亡くなっていたことも、知らなかった。

原子力発電所が建てられたせいで、漁師たちが放棄した海岸。
こんな見捨てられた場所で、彼は死に臨んだ。
荒涼な、と言う表現が一番ふさわしいこの土地で
生命を吹き出すように咲く植物は、強靭で繊細。
ここに植えられる植物は法律で制限されていたので
彼が選んだのは、自生の植物ばかり。

苗を育て、移植し、ミツバチを飼い、
廃材の鉄や木材を道標のように配した庭。
道標のようなそれは、墓標のようにも見える。
「禁じられた遊び」で子どもたちがつくるお墓のよう。
庭と墓、けっこう近いものかもしれないね。
彼にとって庭(Garden)とはエデン(Eden)をさしている。
そんな映画をこの庭で撮影してもいる。
デレク・ジャーマン、最後の庭。

話が急にとぶけど、去年どこかの雑誌で
トム・フォードの自宅が特集されていた。
ここで映画を撮るというので。
それが「シングルマン」だと気づいたのは
映画が始まってから。
コリン・ファースはいい役者だけど
これはどうもリアルじゃない。
ちょっとお間抜けな、ジュリアン・ムーアが良かったな。
「エデンより彼方に」を思い出した。
特に関連はなさそうですが、
すごくすてきなこの家が
なんにも置いてなくて、お墓みたいだったな
と漠然と思っていただけ。
ここも、鉄が主役の家だったな。

デレク・ジャーマンが生前、オーヴィルのモネの庭を訪れた時
「私の“砂漠”とはなんて違うんだ」と、言ったらしい。
モネの庭をうらやましく思わない人はあまりいないかもしれない。
でも、自分の庭とは違っている。それだけ。

ここは鉱物の庭だとおもう。
固い殻を割って花をさかせる植物も、ここでは鉱物の世界に属している。
つまり鉱物は、花という柔らかい器官をもっていたのだ。
物質の構成要素である原子のように
ここでは植物のひとつひとつが、世界を構成しているエレメント。
もう少しで、この庭の分子式がかけそうな気がしてしまう。
それは記号ではなく、ささやかではあるけれど、花々でいろどられたものになるだろう。

彼が作った庭は、人生の喜び、ではなかった
命、そのものがテーマだったと思う。
手元に持っていられたら、いい写真集だと思う。
もちろん、そこに立ち、座ることを想像するために。
そして、細部を見、それから世界を感じるのだ。

If you wish to be happy for a day, get drunk.
If you wish to be happy for a week, kill a pig.
If you wish to be happy for a month, get married.
If you wish to be happy forever and ever, make a garden.

中国のことわざだったとおもう
一日、幸せでいたいなら、お酒を飲みなさい。
一週間、幸せでいたいなら、豚を一頭殺して、つまり料理して食べなさい。
一ヶ月、幸せでいたいなら、結婚しなさい。
一生、幸せでいたいなら、庭をつくりなさい。
と言っている。深い。

「アンジェラの灰」という本の中で、
主人公の男の子がお父さんに、ある聖人の話をしてもらう。
大好きな、お父さんは、いつも、遠くへ出稼ぎにいっていて
たまにしか会えない。
そしてお父さんが、お前にこのお話を贈るよ、と言ったから
このお話は自分だけのもの、だと思う。

ところが、なかよしの友達も
この聖人のお話が大好きで、まるで自分のもののように話す。
主人公の男の子は、もうれつにおこって
友達をなぐってしまう。
これは自分だけのお話なのに、
父さんがそう言ったのに。

大きくても、小さくても「世界」という言葉を、口にのぼらせる時
なぜか、ふとこの話を思い出してしまう。
なのに、その聖人のお話がどんなだったか思い出せない。
なにか世界に関係することだったのかな?

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