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ミヤハラヨウコの日記

 

 

2011/5/31 絵地図


地図が好きなほうだと思う。
見るのも、かくのも。

ナビゲーションとなると、またべつの話で
自分の中では道は見えていて、イメージできてるけど
人に教える時、右と左をとっさにまちがう。
すると、また別の問題がおきて、
小さい頃左利きだったらしいよ。
なんて言ってもおさまることではない。
(右と左、いまだに小さく確認する)

でも地図は好き、と言い張る。
知り合いに、おいしいお菓子の店を教えてあげるとき、
近所の話をするとき、
電話中、相手に見えるはずなくても、
自分に確認するようにかいている。

花屋を鉤の手にまがって2本目の横道をはいるとこ、
赤い三角が目印、
ポストあり、
途中の、ここは猫屋敷、
気になるものは必ずかきこむ。
地図をかく作業は
頭のなかで、ひとつながりにふわふわと連なっているものを
紙の上にかきだしていくような感じ。

知らない街の地図をながめて
ここに植物園があるとか
小さな池があるとか
長い階段を昇ると、ここは古い城跡、
見た事ない街を地図上に浮かび上がらせる。
作り手によって、地図上に配置されるものが
違ってくるところも、おもしろいと思う。

ただし苦手な地図もある
それは、ネット。
ズームインもズームアウトも自由自在
上下左右、どこまでもどこまでも平行移動していける。
便利なんだろう。でもそれが苦手。

この扁平さって、どうだろう。
なにも、立ち上がってこない。
衛星の画像として見られる鳥瞰図はちょっとおもしろかったけど
やはりこの平面地獄からは逃れられない。
タスケテ、て思ってしまう。

これが本来の姿なんだろう。
地球表面のうすいうすい膜上に住んでいるわたしたち。
ほとんど高さのない建造物。
634mの塔が、どれだけ高いといわれても
成層圏、約50km。
大気圏外、約100km。
遠いのか、近いのか?

日本の地図といえば
伊能忠敬が精密な測量地図をつくるまでは
ななめ上空からの俯瞰図、ていうのが多い。
想像の地図だけど分かりやすい。

江戸時代、庶民のあこがれだった旅。
有名絵師ならたいてい
名所、観光地の、地図・見取り図を描いている。
旅にでることのできない人々は
そういう絵図をみて
旅へのあこがれを満足させた。

そんな見取り図のなかでも
雪舟の「天橋立図」はちょっと違っている。
水墨画という時点で違うものになってる。
神話世界みたいで
とても同じ地上にあると思えない。
雪舟は、実際にこの土地をあるいてスケッチもたくさん残している。
(日本画ではスケッチと言わないね、下絵と言う)

下絵といえば、去年読んだ本の中に
すごい絵を見つけてびっくりした。
どこぞの大名の、お庭の下絵。
あっさりとした走り書きなのに、すごい。
筆の運びが、ただものではない。
これ、だれだろう? と小さい字をよくよく読んだら
谷文晁(たに ぶんちょう)
江戸時代文人画の代表みたいな人。
実力が違うって、こういう事ですね。

応挙の画帳は、ひとつひとつが、もう完成していて
下絵って感じじゃなかった。
あれは、お手本みたいなもので
やんごとない人々に献納するためのもの。
あれを見て、絵をかく練習をする。
絵や歌は、教養のひとつ、だったから。

「キャラバン」という映画の中で、旅を終えた男の子は
僧院で修行をしている兄に会う。
ずっと離れて暮らしてきた兄は
僧院で壁画を描いている。

「これはなに?」
「これは樹というものだよ」
少年が育った場所にも、この僧院にも
標高3千メートルをこえるこの土地では、樹は生えない。
「見た事がなくてもかけるの?」
「修行をすれば描けるようになるのさ」
というような返事をしていたと思う。

ここでも、絵は、書道のようにお手本をみて、習うもの。
菩薩や如来、天女や唐草を、彼らは人づてに聞いて、
運がよければ、絵を見て
想像で補い、さらに昇華させて伝えてきた。
それには、お話(ストーリー)が重要な役割を担ったはず。
例えば、菩薩が現れるとき、
天上から花が舞い散り、妙なる楽の音が聞こえてくる
という話はなぜだか私でも知っている。
樹というものを、分かってもらおうとするとき
人は、どんな話をするだろうか。

映画のエンドロールで、兄の描いただろう壁画が映る。
小さく、木のぼりをする弟のすがたが描きこまれている。
そこには、ちらと西洋人の視点を感じてしまったのだけれど
木登り、子供時代の遊びに
こんなに欠かせないものあるだろか。
木登りはしたほうがいいよね。
世界が見えるから。

2011/4/11 「天の川幻想」

ラフカディオ・ハーンの遺稿集。
そこへいたるいきさつは、ながくなるけど
今橋理子さんの、江戸絵画についての著作をいくつか読んだ後
ふとつけたテレビで、今橋氏が
葛飾北斎「西瓜図」の話をされていた。

江戸時代、絵画について日本人は
絵を読み解く「見立て」という鑑賞を行ってきた。
それは特別なことではなくて
絵には隠された意味があり連想されるべきものがある
それは和歌や短歌などでも展開されていたことで
ある言葉は、より深い別の世界への導き、
たとえば、「かきつばた」といえば
伊勢物語「八橋」の段を連想するというように。

検証については著書を読んでいただくとして、
「西瓜図」は「七夕」行事の「見立て」であろうというのが
今橋氏の意見。
最終的にそういう目でみると
西瓜にさしわたされた包丁に散った白い点は
牽牛と織り姫の星の形であったと、お話を結んでいた。

琴座のベガ、わし座のアルタイルとして記憶されている
現代の織女星、牽牛星は、単体の恒星だけれど
牽牛星も、織女星も、江戸の七夕では、
それぞれ三つ星の集団としてとらえられていた。
天の川のお話にも、でてくるだろうか?
ふと思い出して、ラフカディオ・ハーンを読みたくなった。

東北関東の大地震がおきたために
図書館の本を返しそびれていた。
調べたら、地震の翌週から、開いている。
「おそくなって‥」と返したら
係の方は、何でもない風に本を受け取ったので
詳しい話を聞くきっかけがなかった。
本棚がドミノたおしで、なんていう状況をかってに想像していたが
そういうこともなかったようだ。

昔話の読み物は見当たらなかったけれど
タイトルに「天の川」の文字がはいっているこの本を見つけた。
天の川の伝説と、万葉集などの歌について英語圏むけに解説している。
ハーンによれば星合村というところに
牽牛織女をまつった神社があると書いているが
そんな名前の村はどこにも見つからないと訳者は注釈をいれている。
(伊勢に星合氏という一族がいたらしいから、どこかにあったかのもしれない)

ハーンという人は、外国人だからこそ、
日本人より日本文化へのあこがれが、より強くより深いのですね。
明治時代、日本人が切り捨てていく、古いものを
ほんとうに残念そうに見つめていたのでしょう。

「日本からの手紙」は日露戦争当時の東京にあって
日々の様子をつづったもの。
海の向こうで戦争が起きているというのに、
「日本人は平素と違ったことはなにひとつしていないように映る。
この奇妙な落ち着きは記録に値するものだ。」
(ただしそれは、日本人を表面的にしか知らない者の観察であって)
日本は、はるか昔から天変地異の国であった。
一瞬のうちに町々を壊滅させる大地震。
二百マイルにもおよぶ、沿岸の住民を押し流し、全滅させる大津波。
広大な面積の耕作地帯を水中に呑み込む大洪水。
こうしたあいつぐ大震災のために
この民族は、あきらめと忍耐のうちに暮らす事に馴らされてしまった。
(訳/舟木裕)

この用意されていたかのような文章はどうしたことでしょう。
今度の震災でも、海外のニュースが
節度と落ち着きをなくさない日本人を
驚きと賞賛をもって伝えているのを聞くけれど
それは昔むかしから、変わらないことだったのだとここに書いてある。

戦地へ赴く兵士は写真を撮って家族と自分の手元に残そうとしたために
写真屋が大忙しで仕事の半分もこなせないでいるという話もあった。
写真の映像が暗かったり、
誰かが誰かより陰が薄いなどということがおきると
日本人の「縁起」が良くないという事に結びつくので
写真はおもいきり明るい照明でどの人物もくっきりと映さねばならない。

日本の家の灯りや、テレビの照明がことのほか明るいのは、
まさか、そういうことからつながっているんだろうか。
昔の家のなかは、本当に暗かった。
本を読むためなら、本を読む時だけそうすればいいわけで、
どこもかしこも明るくする必要はあるのかな。

ついでに、自宅を引越して気づいた事がひとつ
以前の家は、必ず外に面した窓があって
夜でも(停電時でも)室内がまっ暗ということはなかった。
月のない夜は、きっと真っ暗だとは思うが
「鼻をつままれても分からない、暗闇」というのは最近経験がない。
ところが、集合住宅の部屋では
どうしても窓のない場所ができるので
そこは昼でも照明がないと暗い。
なるほど、そうなれば停電の時には、
電池式の懐中電灯が必要になってくる。

また、「日本からの手紙」のなかに、
町にあふれる「戦争」を題材にとった
美しいもの、悪趣味なものの商品の数々をあげている。
ハーンの目には、けして美化された日本ばかりではない
本当にこまいかいディテールで日本のあれこれが映っている。

ハーンの業績には奥さんのセツさんの存在はかかせなくて
実際セツさんのお話も、とてもおもしろかったのだろうと思います。
本の最後には「思ひ出の記」として
セツさんの文章が載っています。
怪談をことのほか好んだハーンのために
いろいろ本を探して読んであげようとするのですが
ハーンは「本を読んではいけない
あなたの言葉で話してください」
と言って、本をしまわせた。
彼女は、物語を自分の中にとりこんでからハーンに話すのですが
それが続くと夜、たびたびうなされるということもあったようです。

ハーンが、セツさんから聞いたお話を本に書くまでには
時には1年、また7年かかったものもあるそうです。
同じ話を何度も何度もせがんだり、
お話にないことを、
たとえば、幽霊が登場する場面では
空はどんな色で空気はどんなふうに湿気をふくんでいたと思いますか?
などど聞いたりするのだそうです。

「耳なし芳一」のお話をかいている時には
ハーンが暗くなった部屋で灯りもつけずに
もの思いに沈んでいるらしいので
障子のそとから、セツさんが
「ほういち、ほーいちー」
低い声をかけたりする。
するとハーンは
「はい、私は目しいのほういちでございます」などと答えるのです。
やはり、この奥さんだから、良かったんですよね。
全てがすべて、セツさんのお話だったわけではないでしょうが、
やはりこの二人であったから
あのように美しいお話が書かれることになったのだと思います。

2011/1/15 お正月

元旦の朝、
実家では、近所のおばあちゃん達がよりあって、
周辺のお地蔵様や、うぶすなさま、小さな鳥居の神社、
お寺、氏神様をまわります。

それこそ、神道も仏教も祖神も、ひっくるめて一緒。
日本人らしいといえば、まったく日本人らしい元旦の朝です。
子どもの頃は、なんにも分かっていないから
有名な神社や仏閣に、たとえば成田さんとか
鹿島神宮などへ行きたがったものですが。

おばあちゃん達が4、5人づつ
手には、小さな巾着袋をさげて。
なかに、お供え用のお米がはいっています。
祖母が居た頃は、渋い巾着をつくっていたものですが
さすがに、古くなったので、
着物の端布を集めたのを
見よう見真似で、母に作ってあげました。
かわいらしいと言って、使ってくれているのを見ると
なかなか、うれしいものです。

早朝、冷たい空気の中を歩きだし
あちらこちらと立ち寄って
お日様も樹々の上まで高くなって
身体も空気も暖まって来た頃、家路につく。
歩きながらもおしゃべりはさかんに交換され
それはそれはにぎやか
おばあちゃんたちは、ほんとにお元気です。

おじいちゃんたちは、口が重いから、また別な雰囲気で
目的地にまっすぐむかって歩く、もくもくと。
たまにおしゃべりで社交的なおじいちゃんもいますが
会話が行き交うという状況はなく、相づちやうなずきで即終了。
その後の、正月から飲むお酒が目的かもしれません。
それが、家長の勤めなのかもしれません。

私のお気に入りは、小さな阿弥陀堂で
この辺りでは、一番古いものと言われています。
雑木林に囲まれた、小さな祠は
そこだけ鳥も鳴かず、しんとして不思議。
人が居ないときは、きっと鳥もやってくるでしょう。

参道は、ご近所の方が毎年きれいに整えてくださるのですが
夏になると、道をふさぐように雑草が生い茂ってしまう。
だって一度、行ってみたのです。
夏に来る人なんて、いないから
ご近所の方に、どこから来たの? 
と、不審そうに聞かれてしまいました。

ほったらかしとは違うのです。
ここは依代ですから
神様を迎えるのは、
一年のある決まった日、だけなのです。
その日の、この場所に意味があるのですね。

心をこめて、お迎えし、神様を祭る。
心がこもっている、というのは
簡単ではないし、それが出来るということが大切で
ご利益があるかどうか以前に
それが土地に住む者の勤めで
一年間ありがとうございました、
新しい年もどうぞよろしくお願いします
という感謝のご挨拶、なのですね。

ここで少し話がかわりますが
鹿島の神宮の参道にあるのは、二の鳥居。
一の鳥居はどこだろうと探していた。
北浦岸に(地図上では鰐川)一の鳥居がある。
冬至の朝日は、鳥居をくぐって鹿島神宮をさすのだそうだ。
神様は、海からやってきた。
その場所で神を迎える儀式があったそうだが
今も続いているのか分からない。

北浦、霞ヶ浦は、淡水湖ですが、
浦というからには海だったのでしょう。

高校の地学の時間に教えてもらった。
洪積世、関東平野は海の底で、点々と島があるばかり。
海水の後退に伴って、平らな土地があらわれ
その後、富士山など周辺火山の噴火があり、
分厚い関東ローム層を形成。
江戸時代、治水事業が行われるまでは
利根川は、よく氾濫しては流れをかえるので
親しみよりは、いくぶん恐れをこめて
坂東太郎とよばれていました。

海から神をむかえ、年があらたまると
言祝ぎ(ことほぎ)という職業の者が家々をまわり
神の言葉を伝えて歩いた。
家長へあてた予言のような、指示のような言葉だったらしい。
たとえば、今年はある特定の物事を、慎むべしとか
どこそこの畑でこれこれの作物をつくるべしとか。
それを専門に、全国を歩いている人々がいたようです。
そういえば、お正月は、獅子舞が来たり
なにかしら普段見かけない人が来る日だったような気がする。

お正月の話ついでに。
おめでたいお正月飾りの一つに
七福神というのがありますが、
宝物を満載した船にのっています。
もともとの意味が変わってしまったらしいという
それは、夢の話です。

宝物を乗せた船は
もっと古い形では七人の神様は乗っておらず
米俵をつんでいました。
船の帆には、貘(バク)という文字が書かれている事もあります。
もっともっと古い船は
ただひと総の稲の穂をのせた
小さい船のようでした。

それは江戸中期までは、
主人が郎党のものに、年末(大晦日)に配った刷り物などで
もらった者はそれを枕の下にいれて眠る。
後日それらは集められて
土に埋められたり、焼かれたりして処分された。
それは一年の穢れや悪い夢を
その船に載せて流してしまうためのものだった。

それが、江戸中期「一富士二鷹三なすび」の流行もあって
大晦日の夢より、新年にみる初夢の方に関心があつまり
めでたいものを載せて運んでくる船という発想に変わり
ついには福の神がのる宝船という形になった。
現在、神社などで配っている宝船の紙は
正月の二日に枕の下にいれるようにと
書いてある。

小さい船と言えば、
ガガイモのことが連想されて
常世へいったスクナヒコの事を思い出します。
スクナヒコは
オオクニヌシノミコトが、国造りをしているとき
ガガイモの船に乗ってやって来た、ちいさい人で
一緒に国造りをしたのち、常世の国へ去ったという
日本書紀に載っているお話です。

常世の国は、海の向こうにある、楽園の国で、
黄泉の国とは違います。
枕の下に入れた紙は、地面に埋めたり焼くということなので、
もしかしたら黄泉の国へ送る方法と、とれなくもありませんが。

また違うお話のなか、大航海時代の南の島で、キャプテンクックが、
神様と間違われた話がありました。
島の人々には、船の白い帆が、空の割れ目のように見えた。
その島の人たちにとっては
空がぱっくりと割れて、そこから現れるのは、神様
ということになっていた。

海の向こうから神様がくるという、考えは、
もともとポリネシアにあった考えなんでしょうか。
それが根底にあって、
いい物は海の向こうからやってくる、というような発想が
できあがって来たんでしょうか。
だって日本人は、舶来品が大好きですものね。

さて、こうして新しい年を迎えたわけだけれど
気分的には、まだ新年じゃない。
大祓えの豆まきがすんで
旧正月の朝日を見るのが、私の中でのひとくぎり。
新年の朝日は、やはり特別なんです。

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