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ミヤハラヨウコの日記

好きな本や物 や
映画のこと
食べ物のこと
植物のこと
思いついたことを
文章にしてみよう思います

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2010/12/13 イカとクジラ

ウェス・アンダーソンが作る映画というのが
くどさ満載で、好き。
「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」
「ダージリン急行」
「ライフ アクアティック」

ところが「イカとクジラ」
今回は、ウェス・アンダーソン制作
ノア・バームバック監督なので
ちょっと違うけれど。
監督自ら書き下ろした脚本が、いい。

大人の汚さずるさを、執拗に追いかける映像は
いつもの感じかもしれないけど
それが、鼻につくとか、身につまされる
とかいう段階を通り越し、笑えない。
それはつまり、自分自身を笑うことだから。
そんなドタバタをやり過ごした後に
自然史博物館の展示室で、
巨大なイカとクジラの闘いを目の前にしたら
なんて素直な気持ちになれるんだろう。

父親を崇拝する、こなまいきな長男。
母親からチキン(弱虫)なんてよばれている、
やさしい性格の二男の挙動不審ぶり。
どっちもどっちな、両親の間にいる
子どもたちがいい。

弟が生まれるまで、
母親と長男は、よく二人だけでお出かけをしただろう。
自然史博物館や、きっと、もっといろんな場所に。
でも、小さかった男の子は
巨大なイカとクジラの闘いが怖かった。
深い海の底で闘っている、巨大な生き物たち。
自分の手の届かない世界で
両親がけんかをしている姿のように思えたんだね。

それを、今、目の前にすることで
10代後半の男の子は、自分が怖がっていたものの正体を知る。

最後まで見るのに、
多少の忍耐力を要する方も
いるかもしれません。
でも、子どもたちは、日々、成長していくのです。
それがまぶしいなと思います。
子どもが居なくたって、
かつて子ども時代をすごした人なら
いい映画だと思います。

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2010/11/7 月に囚われた男

「月に囚われた男」 MOON
ダンカン・ジョーンズ第一作目の長編映画。
デヴィッド・ボウイの息子なのだそうで、
世の中には才能ゆたかな二世、たくさんいるのですね。
環境のほうが、影響は大きかったかもしれませんが。
親が偉大だと、プレッシャーも相当でしょう。
それを、前面にだしてはいないけど、
積極的に隠してもいない。
そんなことは、取りざたされてもされなくても関係ない
と、早く言われるようになるといいですね。
私が気になったのはその名前でした。

ダンカンは、「デューン 砂の惑星」で
皇帝レトを、暗殺すべく意図され、
何度何度も、クローン再生された男の名前です。
日本ではお笑い芸人さんの顔がまず浮かぶでしょうが
SFでは、伝説的な名前です。
そちらのほうが気になった。
いえ、映画を見て、確信したっていうのかな。

サム・ロックウェル主演。
ケヴィン・スペイシーが、
ガーディという名の、コンピュータの声で出演しています。
ひらたく言えば出演者はほぼ一人で、舞台も月基地内部のセット。
「制作費削減のため」と言っているけれど
そんなことはまったく問題外と思えました。
短編SFの世界を、映像に描ききれてる。

なぜ短編かって、
だって短編こそ、SFの王道だと思うから。

長大なSF小説は、確かに面白いし
どっぷりとその世界に浸る楽しみがあります。
ただそれを、限られた時間内の映画にしようなんて、
やはり無謀です。
音楽のビデオクリップみたいになってしまう。
見る側は小説と映画とは別のものだと考えないと
やっていられません。
連作にするという手はあるけれどね…
(となると、あれは成功なんだろうか?
3部構成、全9作でしたっけ?)

ひとつ、残念だったのは
ケヴィン・スペイシーが、
「声だけでいいからぜひ出演したい」と言わせた、ガーディの、、

月の採掘基地のコンピュータ。
声に文句はありません。姿形も、あんなものでしょう。
映画「2001」へのオマージュから、
クリーンな施設内で動き回るコンピューターは
一つ目(カメラのレンズ)で、こちらは華奢なアームを備えており、
室内を自由に動き回るシステム。
目の横の小さなスクリーンには、
その時の彼、ガーディの気分を表すスマイルが表示されている。
にっこりからしょんぼり、さらにその先。
そのサイン、スマイルの造作が、、
デザインとして、がっかり。
イギリス人のブラックセンスが利いてない。
もっとカラッとした、強さがほしかったなあ。

予期しない事態に、多少の戸惑いののち
自分の役割を全うするガーディ。
もちろん、アシモフのロボット三原則を遵守。
つまり名前のとおり、人間であるサム・ベルを守ったのね。
細いアームを彼の肩において、主人公を慰めさえするのだ。

この映画は大作ではないし、そんなに話題になったかわからない。
でも、これからを楽しみにしていよう。

見たい映画としてあげるなら
「太陽からの風」か「結晶世界」
だれか、映画化してくれないかと思っている。
もう、太陽ヨットは実用化しているようだけどね。
「トータル リコール」だってもう夢じゃない。
つまり、思いどおりの夢を見る発明も実現できているようだ。

SFの世界が、夢の未来とは言えないけど
むしろ悪夢って言った方が、当たってる。
そういう不可知でありつつ人工的な未来になったとき、
大切なのは、、そこに生かすべきなのは、日本人の細やかな気遣いと
やさしさだろうなと思います。
小惑星探査機「ハヤブサ」は
偶然と幸運も働きましたが、
まさしくそれが存分に生かされた結果ですよね。
この監督も、ガーディに、そんなものを期待していたのかもしれないね

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2010/9/30 Birds Of America

サザビーで、オーデュボンの「Birds Of America」が
売りにだされるというニュース。

ペリーが来航し、開港を迫った時
将軍への献上品の中に、この図譜があった。
銅版画に着彩した、原寸大のカラー図譜。
アメリカの風景とともに描かれた鳥の絵は、
写実的で、一般的には博物画とよばれている。
(それにしても、原寸大ってどういうことよ?)
落札推定額は7億とか。
どこかの貴族が亡くなって、稀こう本の蔵書が放出されたらしい。

オーデュボンの人生は、平穏無事とほぼ対極にあって
船乗りの養子になって、養父と航海へでた
などと言うあたりは、まるで子ども向けの冒険小説のようです。
船を降り、アメリカに落ち着いたものの
いつしか商売そっちのけで、アメリカ全土を歩き回って
鳥のスケッチをしていました。
鳥の画集を出版しようと思い立ったのは、破産してから。
“名も売れていない画家の絵を、大判の、しかもカラー印刷で”
当然、アメリカの出版社はどこも断りました。

それならと、イギリスに渡った。
イギリスには、高額で希少な出版物を扱う販路があったわけで、
やっと出版にこぎ着けた。
フランス生まれのオーデュボンが、イギリスで出版したアメリカの鳥の図譜。
イギリスでの成功があって後、アメリカでも出版され、
間違いなく、1838年当時「世界で一番すばらしい本」と言われていた本です。
現在でも、一番高額な本であるかもしれません。

でも、応挙の画帳と二択だって言われたら、
私は応挙をえらぶなぁ。
(軸物でなく画帳。もちろん仮定の話ですよ)
だって、あんなでかいもの、置き場所に困るし、
虫に食わしちゃったら、人類にたいする犯罪でしょ。
それは、応挙の画帳だっておんなしですが。

7億ですか。
金額はどうでも、オリジナルを見たいなあ。 

こういう時、タイムリーに柔軟に、日本にあるはずのその献上品を
どっかの博物館が公開したらいいのに。
今どこにあるのか知らないけど、まさか、、、ありますよね?

というのも、このあいだ、東大植物園(小石川)で
世界最大の花(ショクダイオオコンニャク)が咲いた時のこと。
開花は2日くらいのものだったので、
炎天下、ものすごい行列ができました。
同じ頃、アメリカの植物園でも咲いていて、
そちらは夜間もずっと開園し公開していた。
そういう柔軟さが日本には、なぜないの。
残念なことだよね。

話はかわりますが、TVで極楽鳥の番組をやっていました。
ニューギニアのフウチョウとか、かわった求愛のダンスをする鳥たち。
特別美しい羽を持っている。
それで極楽鳥も見たくなって、図鑑を探していたら
荒俣さんが昔の博物画を集めたのが本になってるのを見つけた。
9万! するらしい。
印刷の特殊さもあるかもしれないけど、
絵を集めるのに、だいぶ使っただろうからね。
見たいなあ。

調べたら、港区の図書館には蔵書がないから、
国会図書館ならきっと見られるね。
こんな調子で、オーデュボンの本も見られたらいいのに。
それは無理か。

鳥を飼うことは、江戸の将軍や大名の趣味のひとつでした。
さかのぼれば、それは鷹狩りという制度であったものが
形を変えていった結果らしいのです。
鷹狩りは、モンゴルにも、中国にもあって
なにか、支配者の特権というものだったのかもしれません。
あるいは、土地を統べるときに必要な、
何か重要な物事を含んでいたのかもしれませんね。

飼鳥は、もちろん江戸の庶民にも、流行っていました。
アジアのあちこちでも、鳥の声を競わせたり
美しい籠にいれた鳥を持ち寄って
お茶をのんだりしている文化がある。

ニューギニアの男子の盛装に
フウウチョウの羽はかかせません。
このあいだのTVでは、
今では、希少になってしまった鳥たちの羽を
ながく大切に使えるようにと、フウチョウの研究者が、
キャンディのようなナフタリンを配っていたのが
なんだか印象的でした。

鳥の美しさに引かれるのは
世界共通のこと。
美しい鳥は宝石のようだと、形容します。
生命のある宝石。
宝石のような、カワセミは見たので、
宝石のような、ハチドリを見たいです。

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2010/8/15 アゲハといた夏

その一


庭の水場に近いところに
種が、鳥に運ばれてきたのだろう
小さな山椒の樹が生えている。

ここで立派に成長されても困る、
と思い、毎年、先端を切ってしまっていたけれど
こんなに小さな樹の葉にも
虫の食べたあとがある。
しかも、よくよく見れば
その食べた本人が…いる
アゲハの幼虫。
いち、に、さん。

鳥の目につきやすい場所なので
家人が思いついて
鳥かごの桟の部分だけ使って、カヴァーをした。
これなら、鳥にさらわれる心配はない。
脱皮を重ねてずんずんと育ってく幼虫たち。
毎朝、彼らの居場所を確認するのが日課になりました。

幼虫たちの旺盛な食欲では
高さ50cmもない、この小さな樹でやしなっていくのは
無理かもしれない。
幸い庭にはもう一本、山椒の樹がある。
切った枝を瓶にさして寄せておけば
多少好き嫌いはあるかもしれないけど
食べものに困ることはないだろう。

そして何度目かの脱皮をした緑色の幼虫たちは
いよいよサナギ、になるはずが、
いなくなってしまいました。自主的に。
サナギになるには
羽化に適した場所をさがして
かなり移動するのだそうです。

鳥たちからは(多分)守れたけれど
肝心の羽化は、見れずじまい。
無事にサナギになれただろうか
立派な蝶に変身できただろうか。
がっかりして庭を眺めていたある日
ちっちゃいくせに、あの樹は人気があるようで
アゲハがやってきて
見ている前で、卵を産みつけました。
もしや彼、いや彼女では?

そっと葉を裏返してみると
小さな、薄黄色の卵が
いち、に、さん。
今度こそ、
家の中に持ち込んで、逐一見てやろう。
一家で盛り上がった結果、そうなりました。
昨年の夏の思い出です。

 

その二

プラスチックの水槽を縦に置き
卵付きの枝ごと切って瓶に生けた山椒を入れる。
山椒は切ったあとも水をかえてあげれば
長持ちするので、
何日かに一回、新しい枝にかえてあげればいいだろう。
一応、通気性のいい扉もつけて。

卵の中に、ちいさーい、幼虫の姿が透けて見えています。
私は近視ですが、近いところは
ものすごく良く見えるのです。
2日後には、卵からでて
枝をはっていく様子は、いっぱしです。

もしゃもしゃもしゃと葉っぱを食べ
ずんずんずんと大きくなる。
イチロー、ジロー、サブロー、と命名。

3日後、雨の中、新葉を補充するために
庭の枝を切ってきました。
ガラスの小瓶に生けていると
ぽとりとなにか落ちました。
ややや、幼虫が。
こっちの枝は、不人気かと思いきや
しっかり利用されていた。
しかも、3頭!
さらってきてしまったものは、戻すわけにもいきません。
(いや、もどしてもよかったかもしれませんが)
こちらもウチで引きとることにして
ふ、と見れば、卵も発見。
危うく、葉っぱを捨てるところでした。
他についていないか、慎重に確認。

シロー、ゴロウ、ロクロー、
卵の七味ちゃん。(←これは娘が命名)
こんなに養っていけるか、少々不安。

雨にうたれていた、シロー以下3頭も
なんとか環境に順応してくれて
葉っぱを、もしゃもしゃもしゃ
実にたのもしいたべっぷり。
見とれてしまいます。

総勢6頭の幼虫と、卵一つ。
卵つきの葉は、別の小瓶に生けた。
一滴、二滴と中の液体が出るようになっている口の小さい薬用の瓶で
葉っぱだけ出るようにして生けた。
それが、大変なことになっているのに気がつくのは、
夏も終わろうという頃。
その話はまた後ほど。

 

その三

はじめにサナギになったのは
あとからやってきたシロー。
山椒の枝に、きりっと命綱をはって
身体を固定している。
透明な命綱はたよりなさそうだが、
サナギの背中に、いくぶんくいこんでもいる
幼虫の頃の重量感が思い出されます。
いたくはないのかな?
完全なサナギになってしまうと
木の葉のような、かっちりとした存在感で
重さも軽くなったように見える。

サナギになる前の幼虫は、余分なものを大量に体外へ出し
サテと、サナギの場所を探しにでかける。
羽化の時も、サナギのなかには
その体重からするとけっこうな量の、体液が残されている。
蝶になるには、だいぶ減量しないとならないのね。

次はゴロウ。
ゴロウは、換気のために紗をはったダンボール扉を
するりと抜け出て、脱走した。
あんなにせまい隙間をどうやって?
帰ったら、2mくらい離れたリビングの壁にはりついていました。
壁でよかった。
床あるいてるとこだったら、
危うく踏んでいたかも。
想像するだけで怖い。

庭から枝をきってきた時、
ぽとりと落ちて、初めてその存在に気づいたゴロウ
きっと、生命力が強かったのでしょうね。
立派に育ってくれました。

急に逆さづりになったので、落ちるのかと心配していたら
ほんの1、2分目を離したすきに
また、上をむいていた。
まず、お尻の位置をびしっと決めないと
落ちてしまいますから、
そこに糸をはいていたんですね。

最後は、身体をそらせて、左右に首をふる運動。
ではありません、
身体を支える糸を張っているのでした。
そうして真夜中にかけて
身体を変形させ、サナギになったのですね。
その瞬間は見逃しました。残念。

もそもそしたまるっこい身体が
なぜ、あんな角ばったサナギの形を経て
翅をもった身体に変身できるんでしょうか?
ほんとうに不思議です。
昔のひとも、そう思ったのでしょうね。
蝶々は、霊界、異界に
ゆかりのものと考えられてきました。
それは日本人だけではないようです。

親しい人が亡くなると
蝶々の姿をかりて飛んでくると言われます。
真っ白なハムスター ちぃが死んで
庭に埋めてあげた時は、やはり泣いてしまいました。
頭をかすめるように、アゲハが飛んでいました。
ちぃは蝶々になったのね。

毎日ケージの外にだして遊ばせてあげた、ちぃ。
寒い冬は、私の着ているセーターの内側にはいりこんで眠っていました。
その間は、身動きしないように
じっとしていなければいけません。
セーターの隙間から落ちてしまいます。
人ではないから、おしかりを受けるかもしれませんが
大切な家族の一員でした。
西洋では、人間と、動物の魂の重みは違うようなのですが、
東洋では、動物も草も樹もアリでさえ、
同じように転生するので、魂の重さは一緒と考えられているのだと思います。

 

 

その四

6頭も幼虫がいて、区別がつくのかとお思いの方。
頭から、一番盛り上がった背中とおぼしきあたりに
左右に一つづつ、目のように見える模様があって、
その間を、うずうず模様がつないでいます。
それが個体によって
ほんの少し違います。
それで見分けるんだと、家の者はいっていましたが
違うってことはわかるけど、
はっきりいって、柄の見分けはつきません。

一口にアゲハといっても
キアゲハもいるし、クロアゲハもいる。
その中でも、個体差があって、模様もすこしづつ違う。
サナギの色も、個体によって違うのだそうです。
でもゴロウはゴロウって一番に分かったし、
そうすると、これはシローで、こっちはサブロー。
大きさがちがうので、だいたいそれで。
不都合はありません。

ゴロウの羽化には、私は立ち会えなかったけど、
戻ってきたときは、壁にとまって翅をひろげているところでした。
飛び立つまで、
かなり時間を要するのですね。
そりゃ、そうですね。
初めてその身体で、飛ぶのです。
今まで、えっさほいさと枝を這っていた生き物が
大変身をとげて、飛ぶんです。
もこもこの身体は、ほっそりとしちゃって
その何倍もある翅をあやつって空を飛ぶのです。
なんとしても、不思議で仕方ありません。

今までは「軽やかに飛んでいる蝶」
と思ってきましたが
蝶の翅のなんと重たげな事。
ゆっさゆっさと全身を使って飛ぶのですね。
翅がたわむのさえ、見えるようになりました。
乗り心地としては、大時化の船よりひどい揺れかもしれません。

ゴロウは一度落ちたので、翅がちょっと曲がっていました。
でも、なんの問題もなく楽々と、庭木を越していきました。
後ろ姿を追っていると
「この部屋にはもう戻ってはこない」
確証だけがのこります。
本当にさびしいものです。

ゴロウの翅は黒々として、白の文様が少なかった。
プリミティブな縄文のイメージ。
蝶の翅というのは本来透明で、
鱗粉がついてあのような多様な文様を描くのだそうです。
身体がほっそりと言っても、
トンボのようなきりきりと細い訳でなく、
結構まるみもあって、毛深く、動物的な感じがします。

ほかの幼虫たちも、あいついでサナギになりました。
イチローは目を離したスキにサナギから出て、棚の裏側に落ちてしまい、
あわててひろいあげました。
ここまできて、まだ、羽化の瞬間を見ていません。
こんどこそ。
ランプスタンドでサナギになったサブローを
長時間、観察しつづけました。
一瞬も目を話さない覚悟。

サナギにぶるぶる、という震えがきました。
いよいよです。
蓋を押しあけるように先端がもちあがって
頭がでました。
触覚はうしろに寝かせていたのですね。
翅はくしゃくしゃでへなへなのしっとり重い、布みたい。
十分にひろい場所でしっかりと捕まって
翅が開くのを待ちます。
このさきは、お花の蜜だけで生きる蝶だから
本当にお花が咲くようです。

部屋のあちこちにアゲハが止まっている光景
こんなもの見た事ない。
温室で希少な秘密の花を咲かせる事に成功した
園芸家になったよう。

 

その五

おっと、忘れる所でした。
卵の七味ちゃんは
ついに卵から孵る事はありませんでした。
ずっと卵のまま。
ずっと…?
あれから1ヶ月はすぎています。
ちいさな葉っぱは、まだ緑のまま。
どこまでいくかと、興味深くみていると
その後1、2週間で小瓶のなかの水が少なくなって
枝からはなれた。
すると葉っぱは色を失ってついに枯れてしまいました。
水を切らさなかったら、まだまだ緑のままだったか?
それは不明です。

サブロー達のあとに、また2頭。
この部屋に幼虫がやってきましたが
あとの2頭は
シーズンが遅かったのか、
食も細く大きくなれないまま、
ハチローはサナギになるどころか、さらに小さくなって
枝の先で、アリの食するところとなりました。
ナミダ。
クロー判官ヨシツネは、ちいさいままサナギになりましたが
羽化することはありませんでした。
合掌。

小学生のころは、昆虫に興味がなかったので、
ここにきて初めて、蝶の羽化を見た。
なぜサナギになるのか、
なんで幼虫と成虫あんなに形がちがうのか、
もしかしから、昆虫は宇宙から来たのか?
虫の世界は、私達には分からないことだらけ。
人間の日々の生活と同じ時間世界で、
こんな不思議が行われている。

真夏の、蜜のように透明な日差しの中
結構なスピードで飛んでいく、アゲハ
うっとりと見てしまいます。
アゲハといた夏は、もう一年前。
この夏の猛暑は、昆虫たちにとっては絶好の季節かもしれません。
いつもは小学生がわたる横断歩道を、
今日はアオスジアゲハが渡っていました。
クスノキを見かけると、アオスジアゲハの幼虫が見えないものかと
ついつい細かく見てしまいます。
これは完全に、つぎ狙ってます。

 

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2010/7/8 ぐるりのこと/梨木香歩

本のなかで、ねむの木の絵本のお話をされていた
「タイトルは定かではないけれど
これこれこういうお話の絵本で、今もねむの木が好きだ」
というような。
びっくりした
あの絵本のことだと瞬時に分かったから。
私の場合タイトルは、はっきりしていて
絵や装丁はよく覚えているけれど
お話がぼんやり。

きれいなピンクのぼかしのねむの花が描かれた表紙。
小学校の校庭にあるねむの木が、どうやってここへ来たか
ねむの木の精が、女の子に語りかける。
(女の子が先に、問いかけたのだったかもしれない)
最後のページでは、中国風の衣装を着たねむの木の精が
木の傍らにたっていた。
だから、中国のお話だとばかり思っていた。
どうやらモンゴルからやってきたらしい。
作家さんは、やはり文章(物語)をより深く記憶しているのですね。

その他、かろうじて思い出すのは
ねむの木が、船で海を渡ったこと。

植物は塩にあたると、いたむから
プラントハンターがもっていたような
ガラス付きの木箱に入れられていたのかな?
この箱にいれておけば、
航海中、植物に貴重な水をあたえなくてもいい。
植物からでた二酸化炭素と水が
密閉された箱の中で、また植物に再利用され循環する。
植物の特性をちょっと知っていれば思いつく
シンプルな作りだけど、当時の先端技術。
長い航海に耐え、新種の植物がヨーロッパに運ばれた。
それまでは絵か、種子、乾燥し色を失った標本でしか
伝えられなかった植物の姿。
あざやかな花の色、香り。つややかな緑の葉。

ドリトル先生航海記(映画)では
たしか甲板にたくさん鉢植えを積んでいて
アヒルのダブダブか、ブタのガブガブが、大切な水をあげていた。
(オシツオサレツという線もある)
あれは航海中に食べるための植物なんだろうね。
植物を満載した船!? 
なんて豊かなイメージだろう。
ノアの箱船ですら(飼い葉はあったかもしれないけど)
種の保存目的の植物は、積まれていなかった。
ハトがくわえて来たオリーヴの枝を見て、
大地の復活を知ったのでしたね。
「サイレントランニング」ていう古いSF映画
あれも、植物を満載した船にはちがいない。

ねむの木のお話のなかに、プラントハンターの魔法のような箱は描かれてはいなかった。
時代だってもっと、ずっと前だろう。
きっと、鑑真やもしかしたら遣随使なんかが海を渡った時代かもしれない。
想像は勝手にひろがって、また別のお話に流れていってしまう。

「ねむの木のはなし」は小学校のころ買ってもらった数少ない本のひとつで
それなのに、買ってすぐに小学校の学級文庫に置かれていたのは
親にそうしなさいと言われたのかな。
自分の本を人のもののようにして、何度も読んだのは
執着があったからなのかな。
引越が決まって、本はそのまま学校に置き去りだったのは、、
なんだか、うれしくない思い出ばかり。
でも、ねむの木には、やはり引かれるものがある。
夏の花特有のちょっと重たげなところも、好きだと思う。

以前、上野の国際こども図書館でしらべた。
蔵書にあるのは確認したが、結局、手にとることはしなかった。

「こどもの頃の記憶は、何度も何度も再生され
より美しく、より複雑になっているから
それを今、手に取ったら、がっかりするのは目にみえている」
ちょううどその頃、友人がそんな話をしてくれて
止めておいたのだと思う。
美しい映像の記憶は、一瞬で、現実の映像に上書きされてしまうだろう
そうしたら、もうあの美しさでは再生できない。

小学生のころ読んでいた学研の「科学」と「学習」
夏と冬には読みもの特集号がついていて、
ある冬「雪の女王」が載っていた。
カイ少年を呼ぶ、女王の白いコートがなんてきれいなんだろ。
大人になって、その話を編集の方としたと思う。
でも、実際探すことはしなかった。
記憶の美しさには、なにものもかなわない。
それにあれは、書き下ろしではなかったような記憶もあるので
そう考えると、なんとなく思い当たる絵本がある。
すると、だんだんと記憶が浸食されて、
女王の毛皮のコートが、虫食いになってしまった
ちょっと困った状況です。

実は梨木さんの本をそれと知って読むのは初めて。
児童文学者という肩書きで紹介されている方なのに
本当にはずかしい。「もぐり」て言われても仕方ない。
本は知っていても(実際読んでいた絵本もあったけど)
お名前を覚えていなかった。

ガルシア・マルケスの事も書かれていた。
「100年の孤独」は私の中の、本ベスト10に入ると思う。
私がこんな事を言っては本当に失礼だけど
「ぐるりのこと」を読んでいると
なんだか、世界が近いと感じる。
年齢的に近いというのもあるのかな。

梨木さんは、児童書の仕事をするようになっても
この絵本を知っている編集者に会った事がないと書いている。
「ぐるりのこと」は雑誌にも載ったし、本になったのは2004年だから
反響がないはずはない。
ねむの木の絵本のことは、きっともう
誰かが教えてくれたでしょうね。
「ねむの木のはなし」
生悦住 喜由(イケズミ キヨシ)絵
今西 裕行(イマニシ スケユキ)著
あかね書房から昭和40年に出版されました。
残念ながら絶版ですが、こども図書館に保管されています。

 

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